ひろさちや

身心脱落とは、簡単にいえば、「あらゆる自我意識を捨ててしまうことだ」と思えばいいでしょう。われわれはみんな、「俺が、俺が」といった意識を持っています。「わたしは立派な人間だ」「わたしは品行方正である」と思うのが自我意識です。一方で、「わたしなんて、つまらない人間です」というのだって自我意識。自我意識があるから、自分と他人をくらべて、優越感を抱いたり、劣等感にさいなまれたりします。そういう自我意識を全部捨ててしまえ! というのが「身心脱落」です。もちろん、意識ばかりでなしに、自分の肉体だって捨ててしまうのです。 わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。迷っているときはただ迷う、苦しいときはただ苦しむ。それこそが身心脱落にほかなりません。 けれとも身心脱落は自己の消滅ではありません。「俺が、俺が」といった自我意識がなくなるたけです。 「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。 わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。 坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、「仏らしく生きるため」です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。 ですから、坐禅が、禅堂に坐ることだけをいうのであれば、道元はそんなものは必要ないと言うでしょう。道元にとっては、行住坐臥(歩き・止まり・坐り・臥す)のすべてが坐禅でなければならないのです。日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は「只管打坐」と呼んでいます。ひたすらに、ただひたすらに坐り抜く。眠り抜き、歩き抜く。その姿こそが仏なのです。